世界をかける“はだしのゲン” 投稿者 - TopicsExpress



          

世界をかける“はだしのゲン” 投稿者 tvpickupNHK クローズアップ現代 2013.7.30. 累計1000万部が発行された、原爆を題材にした漫画「はだしのゲン」。去年12月に作者中沢啓治さんが亡くなったあとも、今なお世界中でファンを増やし続けている。1973年、少年誌で連載を開始。中沢さんは人気が出なければ打ち切りになるというプレッシャーの中で「若い世代に、原爆の脅威を伝えたい」という強� �い思いを胸に、少年たちの心をつかむストーリーを描き上げた。そして今、「はだしのゲン」は、さらなる広がりを見せている。原爆投下の正当性を教えてきたアメリカの学校では、「はだしのゲン」を題材に戦争について見つめ直す授業が増えている。核開発に揺れるイランでも、7月に出版が実現した。原爆という重いテーマにもかかわらず、世界の人たち、子どもたちから共感される「はだしのゲン」。その理由はどこにあるのか、創作秘話や米・イランの現地取材で探る。 ====================================================「どれだけの犠牲を払って平和と憲法第九条を手にしたか。絶対変えちゃいけん」はだしのゲン・中沢啓治(ウィンザー通信)2013年08月14日 | 日本とわたしblog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ba5241f9d148fa96e083879319b9ccd8『はだしのゲン』このマンガと出会った時は、もう子どもとは言えん年になってたけど、夢中で読んで、いつもカバンの中に入れて歩いてた。ちっちゃい頃から、図書館に行っては、原爆について書かれた本を読んだり、写真集を見たりしてた、けったいな子どもやった。ゲンとゲンの母親の目の前で、父親と姉と弟が壊れた家の下敷きになり、火に焼かれて死んでいくシーンは、阪神大震災を伝えるニュースの中で、同じような辛い経験をした人の話し声とともに、鮮明によみがえってきた。戦争や原爆のことを、人の何倍も読み聞きした。なんでここまで執着するのやろと、自分でも思た。けど、多分、絶対にくり返してはあかんという気持ちを、固めてたんやと思う。戦争をしたがってる人間は、そらもう、どんな手を使てで� �も、どんなウソをついてでも、戦争に向かわせる。普段は、そこそこ独立してるっぽい新聞やテレビ局までもが、コロッと丸め込まれるのを目の当たりにした時には、さすがに恐なった。気がつくと、いつの間にか、戦争なんかするべきやない、などということは、相手を選んで言わなあかんようになってた。それが今からたった10年前の、21世紀のアメリカでのこと。◯◯国がどうたらこうたらと、あることないことを吹聴し、ビデオを流したり、議会で発言したりして、一般の市民らをとことん怯えさせたり心配させ、やられる前にやらなあかんという流れにもっていく政府と軍に、どんなけ反対しようが、デモで叫ぼうが、まるで意味が無いと思い知った時の絶望感。止められるとすれば、知識だけやと、イラン人の若い女性が言うてはった。知ること。今の日本に、日本人に、一番求められてること。知るためには、自分の手でとり、足で動き、目で読み、耳で聞き、頭で考える。そうやって、戦争のこと、憲法のこと、原爆のこ� �と、原発のこと、被ばくのこと、差別のこと、ひとりひ� �とりの大 人が知り、ひとりひとりの子どもに伝え、ひとりひとりの生きることの権利を、しっかりと自覚してほしい。流れがまだ、それほど巨大でない今、ひとりひとりの目覚めがほんまに大切。流れが巨大になってしもたら、もうその時は、どんなに目覚めてようが、みんないっぺんに押し流されてしまう。そんなことにならんように、そんなことをさせんように、日本の未来に、子どもに、4度めの被ばくなんかに遭わさんように。「どれだけの犠牲を払って、平和と憲法第九条を手にしたか。絶対変えちゃいけん」「放射能の怖さはわかってるはずなのに、日本人は原爆の教訓を忘れてしまう。原発はなくさんといけん」これは、中沢さんの言葉。中沢さんの遺志を、わたしらはしっかり継いでいかなあかん。宮さんとおっしゃる方のブログ宮②伝統文化をつなぐ日本の暮らしとは?に、中沢さんのことが書かれてた。↓その記事の一部と新聞記事を、ここに転載させていただく。73歳で逝去した中沢啓治さんは、六歳で地獄を見た。▼広島原爆の爆心地から1.3㌔で被爆した中沢さんは、自宅の焼け跡から、父と姉、弟の骨を兄と掘り出した。 父と弟と姉は、家屋の下敷きになり、生きながら焼かれた。▼おびただしい数のむごたらしい死体、漂う死臭の記憶。 それは生涯、中沢さんを苛んだ。 そのたびに〈逃げ場のない穴に閉じこめられたような暗い気持ちになって、落ちこんでしまいます〉と、最後の著書『はだしのゲン わたしの遺書』に書いている。▼小一の子を持つ母親から、抗議の手紙を受け取ったことがあるという。 漫画 『はだしのゲン』を読み、夜トイレに行くのが怖いと泣く。 あんなどぎついものはかかないでくれと。�� ��錫��錫��▼中沢さんは返事を書いた。〈あなぁ �燭里�劼 気鵑藁�匹棒�垢靴討い泙后�曚瓩討笋辰討�世気ぁ��錫��『はだしのゲン』を読んでトイレに行けないくらい、自分のこととして感じてくれた。こんなありかたいことはありません〉▼座右の銘は「一寸先は、闇」。 被爆以来、死の恐怖と 背中合わせで生きてきたからだ。 死を見つめ続けたからこそ、生のたくましさを描きえた。 その死は、穏やかなものだったという。中沢啓治さん死去原爆の恐怖 ゲンと叫ぶ↓以下、上記の新聞の書きおこし2008年夏、広島市内の自宅でお目にかかった。柔和で、人懐こい笑顔。おじいさんになった『ゲン』がぁ �修海砲い拭��錫��錫���ぢ才で被爆し、父親や姉、弟を奪われた。「原爆という文字を見るだけで、残酷な死体や臭気を思い出して嫌でね」。手塚治虫さんに憧れて漫画家になった後、過去を隠して暮らしていたという。転機は、生き地獄を耐えて守ってくれた母親の死。ぼろぼろの遺骨を見て、「あの放射能が骨の髄まで奪っていった。原爆から逃げちゃいけない。戦争を起こした者どもを許さんぞ」。封印していた怒りを、自らをモデルにした『はだしのゲン』にぶつけた。原爆の悲惨さや死を生々しく表現して議論になったが、「多くの人に読んでほしいと、あれでもセーブして描いた」。平和の尊さだけでなく、家族愛、人間の強さや弱さ、ユーモアを盛り込んだからこそ、子どもの心をつかんだ。「図書館に初めて入った漫画がはだしのゲンだそうです」。とびきりうれしそうだった顔を思い出す。原爆後遺症ともされる糖尿病を長年患い、この10年は白内障も悪化。2年前から肺ァ ��鵑覇�牘,鬚�衒屬靴覆�蕕癲◆屬△糧畛瓦気六辧溝后垢箸海箸鷆� �気┐討い �覆�舛磴い韻覆ぁ廚塙岷蕕魄悊Ⅷ�韻拭��錫��錫��「どれだけの犠牲を払って、平和と憲法第九条を手にしたか。絶対変えちゃいけん」と語り、『3.11』後は、「放射能の怖さはわかってるはずなのに、日本人は原爆の教訓を忘れてしまう。原発はなくさんといけん」と訴えたという。妻ミサヨさん(70)は「最期まで自分の思いを伝えたいと。執念でした」。「百まで生きて、講演しまくってやろう」と笑った取材の帰り際、握手してもらった手は、ふっくら温かかった。晩年も「壁画を描きたい」と表現者へのこだわりを見せ、「踏まれても踏まれても根を張る」と、青麦に例えたゲンそのままに生き抜いた。「8月6日がなかったら、おやじと酒を酌み交わして、6人きょうだいで楽しかったでしょうね」。そんな67年越しの夢を、天国でかなえているに違いない。(芦原千晶)中沢啓治氏(なかざわ・けいじ=漫画家)19日、肺がんのため死去、73歳。広島市出拭 �函��錫��喪主は妻ミサヨさん。原爆投下後の広島を生きる少年を描いた『はだしのゲン』の作者として知られる。45年8月6日、6歳の時に爆心地から約1.2キロ離れた国民学校に登校する途中で被爆。父、姉、弟を亡くし、母や兄と廃墟の広島を生きた体験が原点になった。63年に漫画家としてデビュー。『黒い雨にうたれて」を皮切りに、原爆や戦争の悲惨さを告発する漫画を発表。73年から連載した自伝的漫画『はだしのゲン』は、原爆投下後の広島でたくましく成長する主人公の姿が反響を呼び、平和教材として活用されたほか、英語やロシア語など、18(現在は20)カ国後に翻訳(翻訳中含む)され、海外でも出版された。晩年は白内障による視力低下や、けんしょう炎に苦しみ、執筆活動を断念。10年に肺がんが見つかってからは、故郷の広島で闘病生活を送っていた。(以下略) -- --
Posted on: Thu, 15 Aug 2013 00:55:56 +0000

Trending Topics



Recently Viewed Topics




© 2015