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------------------   モンゴル人の支配は、苛烈をきわめた。『高麗史』の忠烈王(ちゅうれつおう)十四年の記事に、こうある。  「印信(いんしん)、廉承益(れんしょうえき)に命じて、良家の子女にして年十四、五歳なる者を選ぶに、巡軍、忽赤(コルチ)らをして、人家を捜索せしめ、あるいは夜、寝室に突入し、あるいは奴婢を縛問(ばくもん)し、子女なき者といえども、驚擾(きょうじょう)せられ、怨泣(おんきゅう)の声、閭巷(ろこう)に遍(あま)ねし」  最初の二人の人名は、よく判らないが、高麗人でなければ、モンゴルに従った漢人だろう。ともあれ、パトロール隊に命じて、良家の子女を拉致するため、下女を縛り上げて尋問したというのだから、穏(おだ)やかではない。忽赤(コルチ)は、モンゴルの軍制のひとつである。恨み泣く声が、巷(ちまた)にあふれたという。  モンゴルには、選秀女(せんしゅうじょ)という制度があり、もともと騎馬民族に特有の略奪結婚が制度化されたものらしい。大汗(タイカン・皇帝)のもとに美女を献上するわけだ。朝鮮は、美人の産地としても有名であり、進駐したモンゴル人は競って美女を拉致した。大汗に献上した残りの美女は、家臣たちが適当に分けたらしい。  モンゴルの圧倒的な軍事力に屈したため、やむを得ないことだったわけだが、制度そのものは、その後の朝鮮王朝にも受け継がれて、明(みん)、清(しん)という歴代中国王朝に対して、進献色(しんけんしょく)という制度が固定化され、自国の美女を献上するという屈辱的な慣習が、ずっと続けられたのである。  いわゆる従軍慰安婦という問題も、こうした歴史を承(う)けて、思い込み、予断などから、拡大したものなのだろう。あちらこちらで論じられているから、簡単に済ますつもりだが、慰安婦は、従軍記者、従軍看護婦のように、軍の制度として従軍したわけではなく、あくまで反日プロパガンダとして、そう称しただけなのである。  また、報道の発端では、挺身隊となっていた。いわゆる女子挺身隊は、軍隊を相手に売春を行なった慰安婦とは何の関係もない。筆者が国民学校生(今の小学生)だったころ、年齢の離れた女学生(今の女子中高生)の姉は、この女子挺身隊として、近所の航空機工場で、勤労奉仕を行なっていた。大戦末期になり、労働力が不足したので、女学生にも動員令が発せられたのである。  事(こと)は、姉の名誉にもかかわる。(身を挺して)ということから、最初は軍隊相手の売春婦と、勘違いされて報道されたのである。その証拠に、韓国では、従軍慰安婦というより、挺身隊(チョンシンデー)という言葉のほうがポピュラーである。今も活動している団体に韓国挺身隊(チョンシンデー)問題対策協議会(ムンジェテーサクヒョプウィフェー)、略して挺対協(チョンテヒョプ)がある。「語るに落ちた」とは、このことである。挺身隊と慰安婦を混同したことから始まった誤解であるにもかかわらず、いまだに独り歩きしているのである。  どうして、こうなるかというと、歴代の異民族の征服者に対して、自国の美女を献上するという卑屈な歴史を経験してきたことから、当然、日本人も女を要求しただろうという思い込み、予断が、誤解を史実であるかのように拡大していったのである。この場合、よもや、元、明、清などの中国王朝に対したように、自ら女性を献上したということになると、彼らが口にする自尊心が損なわれるから、日本人による強制という捏造を加えたにちがいない。 (豊田有恒著『本当は怖い韓国の歴史』(祥伝社新書・2012年)151~154ページ) amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AF%E6%80%96%E3%81%84%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8302-%E8%B1%8A%E7%94%B0-%E6%9C%89%E6%81%92/dp/4396113021/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1368517534&sr=1-1&keywords=%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AF%E6%80%96%E3%81%84%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 ----------------------
Posted on: Wed, 28 Aug 2013 04:30:41 +0000

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